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国頭さばくい

歌詞  首里天加那志の御材木だやびる    

和訳  首里国王様の御材木です

 

解説   御材木(うぜーむく)という言い方は、尊敬語のひとつ。  琉球王朝時代の首里城王殿の改修時に、多くはヤンバルと呼ばれる本島北部国頭の山々(与那覇岳・長尾山一帯)から王府へ献上する為に建築用材を伐り出し、材木は比地川・奥間川を下り鏡地原の浜まで村から村へと人々がリレー式に材木を曳いて運ばれ、その後船で海を渡って泊の港へ陸あげされ、首里へと運ばれた。 その木遣りを歌ったのが「国頭さばくい」。 この木遣り歌は大勢で掛け声をかけ合い音頭を取りながら、心をひとつにして歌われた。 歌詞は国王の御代万歳をたたえていて、このしぐさを当奥間区に民俗芸能として保存されている。

 *さばくい(捌理)とは各間切にいた幹部役人の総称。 彼等は材木の検査ならびに運搬の指揮も担当していた。

かぎでや風節

歌詞  

今日の誇らしゃや何にぎやな譬る蕾で居る花の露行逢たごと

和訳  

今日のうれしさは何にたとえられるだろうか  蕾(つぼみ)のままだった花に露(つゆ)がついて花開いたようだ

解説  

沖縄の祝宴には欠かせない、大きな喜びを蕾の花が開いたことに例えて美しく表現した歌。  国王の御前や高貴の座で披露された祝儀舞踊曲「五節一組」の初めの歌であることから「御前節」とも称される。

長寿を寿ぎ国家安泰、子孫繁栄の願いが込められた歌であり、古典舞踊では老人姿で扇を用い踊られる唯一の翁芸でもある。

お祝い事や一大イベントの最初に演奏するのに相応しい内容で、結婚式などの祝宴や舞台の幕開け、お正月など喜ばしい行事で一番始めに演奏されることに頷けている。

第二尚氏の始祖尚円王・金丸は不遇の若い時期、沖縄の鍛冶屋の祖として知られる国頭村の奥間鍛冶屋の裏山にかくまわれて過ごし、その後1470年に琉球王に就くと、世話になった奥間鍛冶屋の旧思を忘れず、奥間鍛冶屋の次男正胤を国頭按司として取り立て、その時正胤が喜びを即興で詠んだ歌という説、「琉歌集 琉歌百控乾柔節流」に一首記載がある「嘉謝伝風節」が原歌という説がある。

​與那節

歌詞  

与那(ゆな)の高ひらや 汗(あし)はてどぅぬぶる  無蔵(んぞ)にうみなしば車とぅばる  無蔵と二人なりば 一足なから

和訳  

与那の高い坂を 汗をかきながら登る  愛しい貴方と一緒なら 車も通れる平坦な道と変わらない  愛しい貴方と二人だったら 一足で越えられる   *とぅばる  当時は車=(牛が引く)砂糖車

解説 

与那の高坂は、与那部落と伊地部落の間にある海に突き出た急斜面の小山で、両村を往来する際の「交通の難所」であった。  昭和8年に海岸線沿いに県道が開通し、人々はようやく「高ひら越え」から開放された。  当時の人々が歩いた山道は、今日でも徒歩で通れるので「高ひら越え」を体験できる。  古典音楽の「与那節」は、地元ではウシデーク歌の中で歌い継がれている。

​謝敷節

歌詞

謝敷板干瀬に打ちゃいひく波や(じゃじち'いたびしに'うちゃいふぃくなみや) 謝敷女童のみ笑いはぐき(じゃじちみやらびぬみわれはぐち)

 

和訳

謝敷の板干瀬に打ちひく波は  謝敷の乙女がほほ笑んだ口元のよう

 

解説

300年続く、うちなー(沖縄)古典民謡の一歌。  「謝敷の板干瀬」は汀砂岩(ビーチロック/波打ち際に溜まる砂礫堆積物が炭酸カルシウム等の膠結物質により板状に固結した岩石)が波の浸食によって、ほぼ平らになった「コンクリート色」の部分。

歌碑上の「はぐき」は、実際歌われる時は「はぐち」と発音し、「歯口=口元」の意味と言われている。

「自然の美しさ」と「乙女の美しさ」の両方が短い歌詞で表現されている。

​辺野喜節

歌詞

伊集の木の花や あんきよらさ咲きゆい('んじゅぬきぬはなや 'あんちゅらささちゅい) 

わぬも伊集やとて 真白咲かな(わぬん'んじゅやとてぃ ましらさかな)

 

和訳

伊集の木の花は あのように清らかに咲いている 

私も伊集の花ならば 真白い花を咲かせたい

 

解説

「伊集」は奄美・沖縄に群生する、5~6月に白い3cm程の花を開くツバキ科。 沖縄最古の琉歌集「琉歌百控」の一歌が原歌である説、琉球王朝王妃の作詞説がある。  

いずれであっても「難曲のひとつ」と言われるこの歌が今日も歌い継がれている魅力・理由は、この歌において「自然の美しさ」「現状・平和」への感謝「謙虚な思い」が表現されている事が、過去・現代に生きる者の「共通点」であるからでは・・・

​安波節